歴史好き女子の『おでかけ日和』

史跡や歴史的建造物、寺社仏閣をメインに旅している歴史好き系カメラ女子のブログです。はてなブログ2019.10.14~

下関 史跡歩き⑤

前回紹介した海峡ゆめタワーの展望台で『幕末維新歴史散策MAP』という素敵なものを発見してしまいまして。
そこに”奇兵隊誕生の地。高杉晋作が愛した街、下関。”という謳い文句が書かれておりまして。
この日は半日も時間がなかったため、今日はふらっと観光して史跡巡りは次回に・・・と思っていた私の歴史好き魂に見事に火が付いてしまいました。
いつか下関の史跡巡りをしたいとは思っていたし、やったろうやないかい!!と半ばやけくそでした。
正直、前日のライブに続いてこの日は荷物抱えて門司港から下関へ歩き・・・足も肩も腕もいろいろな所は結構ボロボロでした。それでも一度やる気になるとやってしまうアホの子です。笑
限界とか計画性とか、その他諸々の言葉を知らないのでしょうね。笑

ひたすら歩いた感じなので、今回は目次もつけずにさらっと紹介していきます。

 

タワーでマップを見つけたというだけでなく、史跡巡りやるしかないでしょ!!と私に思わせたもの。
それは、タワー近くにあった『晋作通り』でした。

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写真の右上にタワーが見えているので距離感がなんとなく分かるでしょうか?
本当に目の前に晋作通りと書かれた石碑とその上に高杉さんの胸像がありました。

そしてすぐ側の坂道を上る上る・・・。
え、めっちゃ住宅地やん・・・目的の公園ほんまにあるん・・・?と思いつつしこたま上って行くと、唐突に高杉晋作像が現れました!!
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なんだろう、京都の円山公園みたいな感じなのかな?
こちらは日和山公園というそうです。
結構高台だったので、見晴らしは良かったですが、正直息を整えるのに必死でした。笑
マスクしたまま有酸素運動的な事をすると、空気が思うように入ってこないので余計に辛いですね。
ちなみにこちらの像、我が故郷・岡山県の名産品、備前焼で作られているそうです。高さは約4.2mあります。
何の縁で備前焼で作られたのか、ご存じの方は是非教えてください!!

その公園の麓辺りにある光明寺へ。
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こちらは1863(文久3年)に久坂玄瑞に率いられて京都から下関に派遣された有志の人達が本営を置いた場所です。この一団は『光明寺党』と呼ばれ、奇兵隊の母体となりました。

『東光寺』。こちらは奇兵隊が屯所として使った場所です。
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後で出てきますが、『了円寺』からこちらに屯所が移されました。

次の目的地に向けて歩いている途中で見つけた『明治維新豪商 白石正一郎海門跡地』。

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こういう石碑を見つけることだけは何度も史跡巡りをしているせいか、得意だったりします。笑

下関駅前にも高杉晋作像がありました。
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この辺りでは大人気ですよね。高杉さん。逆光で顔がよく見えないのが残念・・・。

『大歳神社』。境内には七郷落ちの画碑があるそうです。
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めっちゃ見たい!!・・・ですが、この石段を前に足が一歩も前に動きませんでした。
既に足がガクガクだったので、途中で足が上がらなくなるか下手したら転がり落ちそう・・・。
この時点で下関史跡巡りリベンジが決まりました。

それでも、階段がなければまだまだ行ける!というよく分からないノリで史跡巡りは続きます。

下関駅の前を通り過ぎ、高杉晋作奇兵隊結成の地』へ。
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道端に石碑が残るだけでしたが、ここで1863(文久3)年に高杉晋作によって奇兵隊が結成されました。
その舞台となったのは、先ほども出てきた白石正一郎邸です。ここに広いお屋敷があったのかな、と思わず想像を膨らませました。

そこから少し歩いた場所に高杉晋作終焉の地』がありました。
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以前、萩にある高杉晋作の生家にも行ったことがあるので、これで高杉さんの産まれた場所と亡くなった場所どちらにも訪れることができました。
後で出てきますが、吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞などのお墓がある桜山神社の近くの小屋で労咳のため療養生活を送っていた高杉さんでしたが、最後はここにあった林算九郎家で1867(慶応3)年に亡くなりました。
大政奉還の年ですが、それを見ることなく・・・。それが高杉さんらしい気もしてなんとも言えない。

この辺りの側溝、長州の家紋が入っていて思わず撮ってしまいました。
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地元の人らしき人に怪しい人を見る目で見られましたが、いや、撮るよね!?笑

高杉さんが亡くなった場所からすぐそばにあった厳島神社
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行ったのが2月だったので節分の鬼の口をくぐる門のようなものが出現していました。
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こちらの太鼓は1866(慶応2)年の小倉戦争の戦利品として奇兵隊小倉城から持ち帰ったものです。
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同じ日に小倉城にも行っていたので、勝った側と負けた側を一気に体感した気分でした。

そこからまた細い道を進み・・・。
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いや、ここぱっと見地元の人しか通らない道ですよね。
スマホがなければ知らない場所でこんな所を歩く勇気はありませんが、今の世の中に感謝です。Google Mapがないと最早生きていけない!

そうして辿り着いたのは高杉晋作が療養した場所。
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この辺りに終焉の地に移る前に療養していた小屋が建っていたようです。

少し歩くと桜山神社も見えてきました。
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ここばかりは少し頑張って階段を登ります。そんなに段がなくてよかった。

七郷落ちの史跡も階段の途中にありました。
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ちゃんと参拝して、拝殿の中をのぞきます。
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中には吉田松陰高杉晋作の木造が置かれていました。
写真を撮って良いのかよくわからかなかったので、ここには載せないでおきます。多分写真NGの看板とかはおかれていなかったので大丈夫だとは思いますが、念のため・・・。

歴史系雑誌などで度々見かける高杉晋作が提案して建設した招魂場。
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1863(文久3)年に建設を発案、1865(慶応元)年に完成したそうです。
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ここには有名な長州の志士を初めとして、391名の霊標が建っています。

足がぁあああ!!もう無理!!と何度も思いながら、イヤホンから聞こえてくるBUMPの曲に何度も励まされながら、いよいよ最後の目的地へ。
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階段を上れなかった所もあったし、もっとゆっくり見たかったし、リベンジは既に決まっているし、今回無理に行く必要もないのでは、と自分でも思いつつ、それでも足が止まらないんですよね。
これも歴史好きの性と翌日からの足の痛みとのお付き合いを覚悟して向かいました。

最後に訪れたのは『了円寺』です。
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先ほども名前をちらっと出しましたが、1864(元治元)年に長府功山寺で決起し、萩藩の出先機関である新地会所に押しかけた高杉さんたちが屯所とした場所です。
ちなみに、新地会所は小倉城の太鼓があった厳島神社のすぐ側にあり、今は説明板が残っていました。写真を撮ったのに、ブログに載せる写真を選定していた時に載せ忘れ、後で文章を書く際に気づいたのですが、探すのが面倒くさかったので諦めました。
いつも写真を先にスマホでアップして、文章をパソコンかタブレットで書く方法をとっています。

ここには隊士たちがつけた刀傷がのこっているそうですが、もうこの階段を登る気力すらなく、予め確認しておいた近くのバス停の時刻もギリギリだったので、ここで引き返しました。
再び来ることを勝手に決意して。

下関駅は可愛いフグの提灯でいっぱいでした。
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そういえば、今回は下関で名物のフグどころか何も食べずに歩き通しだったので、次回は美味しいものも食べたいですね。

新下関駅から帰りは新幹線で。
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1泊2日の弾丸旅でしたが、なかなか充実した旅でした。