まだまだ続く予定の京旅ブログ…。
もうしばしお付き合いくださいませ☆
さて、開館を待っている間にお知り合いになった親子さんと共に島原にある角屋の中へ。
因みに、島原は正式名称ではなく、本当は『西新屋敷』と言います。
島原と呼ばれるようになった理由は諸説ありますが、角屋では移転騒動の様が島原の乱の様に慌ただしかったからと説明されていました。
そういえば、島原の様な花街と、吉原の様な遊郭の違いって分かりますか?
違いは色々あるのですが、分かりやすいところで言うと、花街の女の最高位は『太夫』、遊郭の最高位は『花魁』。だから、ここ島原には『太夫』はいても『花魁』はいないのです。
それと、歌舞練場があるかないかも大きな違いだそうです。
花街には歌舞練場があるそうで、勿論ここにもありましたよ!!
二階案内までは少し時間があったので、係りの人に説明をしていただきながら一階を見て回りました。
一番乗りで入ったのでゆっくり見て回れてラッキーでした(●´ω`●)
中戸口にかけていたという暖簾。
白抜きされているのはここの家紋です。
これをくぐってやって来ていたお客さんの事を思うと…ニヤニヤしてしまうのは私だけでしょうか…《(。=ωノ[壁]
そのすぐ側にある新選組の刀傷。
ここはまだ刀を預ける前の場所なので、絶対に新選組が付けたとは言えない気もするのですが…どうなんでしょう。
説明では新選組からの申し出で(書状が角屋に残っています)つけ払いが出来なくなった事を知らずにやって来た下っ端隊士が腹いせに付けたのではと言われていました。
お客さんが入った玄関。
中から見るとこんな感じ。
ここで「おいでやす」と迎え入れたのでしょうか(●´ω`●)
この玄関から入る時、お客さんは刀を刀掛に預けます。
・・・新選組以外は。
彼らだけは京の治安を守っているからという理由で、刀を持ち込んでいたそうです。
だから、刀持ち込み禁止で普通では有り得ないはずの二階の青貝の間の柱には刀傷が二つ残っています。
二階は写真撮影禁止なので説明だけ…。
ここの料理を一手に請け負っていた台所。
一気に100人分の料理が可能だったそうです。
食器もそれ位の人数分のものが揃っていたとか。
盛り付けは上の写真の竈の奥に見える板間と座敷でされていました。
汁物は板間で…などと決まっていたそうです。
西郷隆盛が使ったと言われているのですが…とってもとっても曰く付き。
でも、このおかげで角屋は線路を作るためにと取り壊される事を免れ、現存する唯一の揚屋建築として残っているのです(●´ω`●)
網代の間を見学し、中庭を眺めていたところで二階見学の時間がやってきて、急な階段を上って二階へ。
写真撮影禁止ですし、要予約のうえプラス料金が発生しますが、ここに来た際は絶対に二階に上がるべきだと思います。
揚屋という名前の由来はお客さんを上(二階)へ上げるという意味もあるらしく、客間の本気は二階に行かなければ見られないからです。
角屋には今では一階にも客間があるのですが、それは店が大きくなるに連れて増築されたもので、勿論それらも立派で襖絵などはすごいものがあるのですが、二階の部屋一つ一つの拘りには目を見張るものがあります。
部屋の特徴をだらだらと言葉で説明をしても伝わらないと思うので…一階に戻ります。
一階にある客間の一つ、松の間。
ここは昔ボヤ騒ぎがあり、建て直されています。
新選組好きの間では芹沢鴨暗殺の夜に宴が催された部屋としても有名です。
大体、この辺りに芹沢さんが座っていたのかな?
『松の間』の由来でもある臥龍松。
当時の物は枯れてしまい、根っこの辺りのみが残っています。
今あるのは二代目。
芹沢さんがここで最後にお酒を飲んだ夜、見た風景は大体こんな感じだったのかな。夜だけども…
大河ドラマ『新選組!』で近藤さんと芹沢さんが会津公から頂いた「新選組」という隊名の紙を見ているシーンってここがモデルなのでしょうか。
渡り廊下の様な場所で二人で語らっていましたよね。
部屋の中で一番偉い人が座る場所のすぐ横にあるここは、お酒などで熱くなったそんなお偉いさんたちが出てきて涼んでいたのではないかと説明されていました。
もしかしたら、ドラマでのシーンの様な出来事があったのかもしれないと思うと、密かにテンションが上がっていく私でした(●´ω`●)
いよいよ、再び壬生寺へ!!