万福寺から更に松屋町筋を北上すると、駅が並んでいる大きな通りとの交差点辺りで目的地を発見。
目印はこれです↓
この隣にある鳥居を抜けて緩やかな坂道を進むと見えてきました。
写真の両端に写っている常夜灯が見たかったのです。
これは八軒家浜から移されたもので、台座に八軒家の文字が刻まれているそうです。
八軒家については後程写真と共に紹介します。
探してみると・・・本当にありましたΣ(,,oΔo,,*) !!
そしてもう一つ、境内にある御神灯。
木で隠れてしまっていますが、二つ並んでありました。
草木が生い茂っていたので踏んだり枝を手折ってしまってはいけないと思い、カメラの望遠レンズで探してみました。
こちらには京屋忠兵衛などの文字が。
京屋さんについてもまた後程。
常夜灯と御神灯は見た目は似ていますが、全く別のものらしいです。
常夜灯は夜道を照らすために作られたもので、ここにあるものは先程書いた通り元々は八軒家浜にありました。
御神灯は神社に寄贈するために作られたものだそうです。
たまに御神灯も八軒家辺りから持ってきたものと思われている方がいるのですが、これは最初からここに置かれる為のものなので違いますよ!!
この季節らしく立派なこいのぼりがありました(●´ω`●)
風が穏やかだったので泳いでいる姿は見られませんでした。
ここでも御朱印をいただきました。
一月の初詣期間にはその年の『干支朱印』がいただけるそうです。
そちらも気になる!!
生國魂神社をこちら側から出ると…
目の前にこんな石碑が。
水戸藩士・川崎孫四郎が自害した場所だそうです。
桜田門外の変に参加し、幕吏に追われてのことらしい。
昨日の『花燃ゆ』で起こりましたね・・・桜田門外の変。
そこから住宅街の方に入っていくと、赤と白の派手な外壁が見えてきました。
大宝寺です。
新選組の宿舎となった寺と言われていますが、詳しいことは不明。
屯所となった万福寺の裏手にありますが、道の関係か私が上手い具合に道を見つけられなかったせいか、そんなに近くに感じられませんでした。
慶応元年六月十五日(1865年8月6日)、将軍・徳川家茂の上洛に備えて大阪の警護をしていた新選組は大阪天満宮などの五社に祭礼の件で宿舎に集まるよう廻状を出しました。
用件は毎年行われている神輿渡御を中止する理由が将軍在坂中の混乱を避ける為ならば、新選組が警備をしようというものでした。
そのため、大阪天満宮の社宮総代・大道吉儀が『新撰組旅宿下寺町大法寺』に出向いたという記録が残っています。これが大宝寺なのではないかと言われています。
因みにこの時対応した隊士は、伊東甲子太郎の弟、九番隊組長として有名な隊士、三木三郎だったとか。
さて、松屋町筋に戻り、更に北上します。
大阪市立中央小学校を越えたあたりから注意深く道路沿いを見ていると…。
見つけました!!ぜんざい屋事件跡!!
慶応元年(1865年)、土佐の脱藩浪士が潜伏して大阪城を焼き討ちする計画を立てました。
それを察知し、出動したのが大阪にいた新選組。
京都に居た本隊に連絡する時間がなかったのでしょうね。
谷三十郎、谷万太郎、そして万太郎の開いていた道場の門徒であった正木直太郎、高野十郎の四人で1月8日(2月3日)に襲撃しました。
この時、8人のうち6人が外出中、大多大内蔵には逃げられてしまい、討ち取れたのは大利鼎吉だけでした。
石碑の側面に簡単な説明文も刻まれていました。
谷町六丁目の駅から電車に乗り、一気に北上します。
そのお話はまた次の記事でヾ(。´・ェ・`。)